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RE;COIL (リコイル)メンバーのarc@dmzによる日記

日本・漫画・アニメ・VR

日本

寺田寅彦随筆集 第三巻「生ける人形」より

しかし、結局、文学や俳諧のようなものは、西洋人には立ち入ることのできない別の世界の宝石であろう。そうして、西洋の芸術理論家は、こういうものの存在を拒絶した城郭にたてこもって、その城郭の中だけに通用する芸術論を構成し祖述し、それが東洋に舶来し、しかも誤訳されたりして宣伝されることもあるであろう。

文化はその風土や教育、歴史や日常と深く結びついて、世代をまたいで伝達されるものだ。つまり両親の物理的な位置など多くの制約に束縛されて伝達する遺伝子のような性質を持ったもの──文化的遺伝子(ミーム)──であり、その環境と密接に関連づいて醸成される人文科学もまた、文化圏ごとに個別のものとなる。

何年か前の建築の権威あるお祭り、ヴェネチア・ビエンナーレで、日本ブースのテーマが「ワビ・サビ・モエ」だったことは記憶に新しい。萌えというのが日本独自の感覚で、それは侘び寂びに通じるものがあるのだ!ってな主張をしていた。

アニメといったら日本、というくらい世界的に有名な可愛らしい絵の生産圏で、そういった絵に対峙したとき想起される「萌え」という感覚・美学を、日本の伝統的なそれである「侘び寂び」と結びつけちゃう気持ちは、まあ分からないでもない。極端だけど。

これって、分かりやすい日本文化論の一つだ。

漫画・アニメ

僕には萌えという新語を論じたりどうこうする気力はないが、日本で漫画やアニメが盛んになった理由なら何となく説明できる。

日本画

東京藝術大学の日本画科を今年卒業する友達がいて、彼に連れられて日本画展デートに行ったり、彼の描く絵に何らかの助言ができないかと日本画をいろいろ見て回っていて気付いたのが、日本画は「線」を大事にする、ということだった。

それに対して、西欧画は比較的「塗り」を大事にする。あまり詳しくないが、塗りだけで絵を描くのがいわゆる印象派というやつではないか。

物の輪郭をはっきり認識して描き、色の変わり目をはっきりつける、そんな傾向が日本画にはあるように思える。人間は肌理(きめ)でもって物の境界を認識する、というのが近年の認知科学の所産らしいが、要するにその境界線をはっきり見定める職人芸こそ、日本画家たちの技なのだろう。

イラスト・漫画

ここで今風のイラストや漫画の絵柄に目を向けてみると、僕ら日本人はどうしても、アメコミみたいなのよりもふんわりした「萌え絵」のほうに好感を持ちやすい。

前者はぎすぎすした塗りで線をごまかしているようにも思えるのだけど、いわゆる萌え絵や漫画の絵は線をはっきり引いてあって、その引き方に迷いがなくて綺麗だ。たとえ線があまりはっきりしなくても、塗りのほうがシンプルだったり、綺麗なグラデーションだったりする。肌理の境界線がはっきりしているのだ。

とくに白黒の漫画で見ると差が分かりやすい。アメコミはカラーで読まれることが多く、塗り方を工夫し、肌理をリアルにして魅せることだってできるが、白黒の漫画はそうはいかない。トーンを貼って肌理を表現する技術は確かに優れているが、それでも、トーンの境界線ははっきり見えるし、真っ黒に書かれる輪郭線は誤摩化しようがない。

(個人的には「さよなら絶望先生」を書いている久米田さんは線画の極致だと思う。あと「放浪息子」の志村さん。「イエスタディをうたって」の冬目さんは迷い線がたくさん残った絵を描くけど、それでもその線の集積が逆に心地いい。脳が、その線たちの中から一番自然なものを選びとって補完するのだろうか。)

その線をどう描くか、実際の人のかたちをデッサンした絵柄から漫画やイラストの線に落とし込んでいく作業は、いわゆるデフォルメーションである。デフォルメして情報量を落とし、なおも、ものごとの本質を捉えようとする。情報量を落とすことは、読者・観客の想像力に頼り、本質を剥き出しにする積極的な試みと言うこともできよう。

人形劇

冒頭で引用した「生ける人形」は、前半、人形劇の評論が載っている。

もともと男は決して女にはなれない。それだから女形の男優は、女というものの特徴を若干だけ抽象し、そうしてそれだけを強調して表現する。無生の人形はさらにいっそう人間の女になれるはずがない。それだからさらにいっそうこれらの特徴を強調する。その不自然な強調によって「個々の女」は消失する代わりに「抽象された女それ自体」が出現するであろう。

この言い草は、そのまま絵のデフォルメにも当てはまる。そして、人形劇にしても絵にしても、情報量を落としながらその本質を表出させる表現こそ、日本人が得意とする芸術ではないか。

アニメ

さらに寺田はこう続けている。

この抽象と強調とアクセンチュエーションは、人形の顔のみならず、その動作にも同じ程度に現われる事はもちろんである。

先の描写が絵のデフォルメに対応するなら、こちらはアニメーションに対応する。日本のアニメが「萌え」なのは、日本「的」なアニメーターの職人芸あってこそなのだろう。

以上、大雑把に書いてきたように、日本画や人形劇に見て取れる特徴が漫画やアニメに受け継がれ、現代の日本文化として興隆を極めているというのが、僕の見方である。

VR(Virtual Reality)

さて、先日、爆笑問題のニッポンの教養で、VRを研究する舘教授と爆問の太田が、現実を映す表現について意見を交わしていた。

要旨のみ抜き出せば、太田曰く、芸術は、世界を映す鏡のようなもので、何か世界の中で表現したいできごとがあったときに、それをそのまま伝えることができない場合、無理にリアルに再現するよりも、いったん頭の中に叩き込んで咀嚼し、芸術という一種の言語を借りて言い直したほうがよく伝わるのではないか──ということだった。

僕は、この太田の主張が至極真っ当に聞こえ、また、前から考えていたことにより確証を深めた。つまり、世界内の事物を描写するには、世界内の、その事物以外のものはもとより代替物として役不足であること、その描写を成し遂げるためには、世界内で解明できない不思議な魅力をはらんでいる、音楽などの芸術に頼るのが真っ当な試みであること。

そもそも芸術は、現実にあるものを頭の中にインプットした時点で仮想的なものなのだ。つまり、創作活動は、現実のものを現実の作品として伝えるときでも、間に人間の頭の中を挟んでいる限りにおいて必ず仮想的である。

そして、この芸術をなす方法論として、これまで日本文化圏ではデフォルメが有力視されてきたのではないだろうか。現実にはあり得ない関節、現実にはありえないプロポーション、アニメや漫画は、とにかく仮想のもので現実の概念を描くことに注力してきた。それらは人々の目に極めて魅力的に映り、成功を収めてきているようである。

ここから、いきなりコンピュータの話に移る。

欧米でシミュレーションというと、必ずと言っていいほど地球をシミュレートするという話題になる。地球の重力をシミュレート、よりリアルな霧をシミュレート……3DCGを用いたゲームでシミュレーションのエンジンが優秀であると評価を受ける場合、地球をどれだけコンピュータ上で再現できるかが評価の要になっている。

つまり、よりリアルなバーチャルワールドをコンピュータ上に作ろうとしているわけである。アバターの顔や体型がリアルすぎて気色悪い、と日本ではウケなかったSecond Lifeしかり。

はて、リアルなバーチャルワールド?おかしくないか??

そう、僕にはこれが可笑しくてたまらないのだ。その学術的有用性は認めよう。現存する多くの物理演算エンジンは酔狂としか思えないほど優秀だし、そういった研究は実際の地球にフィードバックできる。だから、研究予算だってつく。当たり前だ。

だけど、どうしてバーチャルな世界でリアルを追求しなくちゃならないのだろうか。僕は、バーチャルな世界はもっと人間の欲求に忠実であっていいと思う。みんなで遊ぶRPGみたく、けっこうな人数を廃人にしたバーチャルもあるけれども、それでは生温い。

もっと廃人を桁違いに増やしかねないほど素敵な、芸術的なバーチャルワールドがあって然るべきだろう。(あれ?ニコニコ動画ってこれ?)

ちょっと話が行き過ぎたけれど、芸術の本質に立ち返ってバーチャルを考えてみたら、そこは地球の法則、宇宙の法則に縛られずに色々な表現ができるかなりすごい場のように思えてくる。実際、アニメにしたって最近はコンピュータの技術をフルに駆使して作られているけど、もっと多様な可能性があるはずなのだ。

そこで提案してみたいのが、僕らの法則に従ってシミュレートされる3DCGの世界。3DCGを描くエンジンまでは宇宙の法則に従うことにして(そうしないとAR=Augmented Realityに応用できない!)、他の物理特性やアニメーションの部分については、全く別の法則を導入してみたらどうだろう。

たぶん、欧米の人たちは地球をシミュレートすることに手一杯で、2.5次元の可能性とか、そういったことに比較的無頓着だと思う。でも、日本の情報科学に携わる人たちは、日本らしい研究をしてみても、いいのではないか。実際上は、それを自由にできる環境があるかどうかが、問題なのだけど。

僕は日本で情報科学を学んでいる。だから、この野望の第一歩として、アニメーションを比較的簡単に記述できる言語とその通信用プロトコルの仕様化をもくろんでいるわけ。技術的にはまだまだ稚拙だけど、色々考えを巡らせながら、(自分の居場所を探しながら、)僕にしかできないプログラム作り、メディア作りをしていきたい。

Adobe AIR アプリとOSネイティブなプログラムの連携

Adobe AIR

Adobe AIRとは、mixi日記で去年6月頃触れた()、Adobe Flashをデスクトップに持ってきて通常のプログラムとして動作させるための仕組み。

ただし、ランタイム、すなわち一種のインタプリタ上で動作するため、OSネイティブなプログラムのように、Windows APIにアクセスしたりDLLの関数を利用したりはできない。よって、マシン語レベルで実行しないと厳しい計算処理などには向かない。

この欠点を補うため、OSネイティブなプログラムとDLL以外の方法で連携することを考える。

TCP/IPによる通信

物理的に同じコンピュータ内での連携を目指すので、ファイルの読み書きを通して同期することもできるが、何とも前時代的なので却下。タイミングを合わせるのも難しかろう。

AIRアプリに許された外部との通信はTCP/IPを用いたもののみ。それならば、OSネイティブなプログラムでローカルホストに適当なサーバを実装し、そこへAIRアプリからアクセスすればよい。

複数言語によるプログラミング

さて、プログラムの開発フェーズで、デザイナとプログラマを分離するために、複数のプログラミング言語を使うやり方は、これまでにもいくつか出てきている。

WebアプリMozilla系プログラムWPF系プログラム
文書の内容を構造化するためにHTMLプログラムの機能を実装するためにCあるいはC++などプログラムの機能を実装するために.NET Framework 3.0、あるいはSilverlight
見た目をデザインするためにCSSインターフェースを定義するためにXULインターフェースを定義するためにXAML
それぞれを連携させるためにJavaScriptそれぞれを連携させるためにJavaScriptプログラム本体のコンパイル時に連携、あるいはSilverlightならJavaScript

しかしながら、どの場合をとっても、簡易にプログラムを作ろうとすればOSの機能が制限され、それをフルに活かすには最低でも三つの言語が必要だった。

Qtをはじめとするクロスプラットフォーム用の優秀なフレームワークを使えば、どんなOSでも動くソースコードを一つの言語で全てを記述できて処理も高速だが、デザインと機能を分離しづらく、ソースコードが読みにくくなりがちだし、実行ファイルのサイズが大きくなる。

今回のようにAdobe AIRとOSネイティブなプログラムを連携させる場合、ActionScript(≒JavaScript)と、CあるいはC++言語さえ知っていれば、インターフェース部分をAIRで設計し、それ以外の処理をOSネイティブなコードで実行できる。

また、OSの機能の一部がPOSIXで標準化されたりしているおかげで、インターフェース以外の大部分は各種OSで共通のソースコードを使える。この点でも、Adobe AIRにインターフェースを任せて内部処理をCあるいはC++で書くやり方は都合がいい。

なお、Webアプリの開発に使える言語のみを用いてデスクトップ用のアプリケーションを開発できる環境(gOS、AIR OS…?)がそのうち整うことが予想されるが、まだ先のことだろうし、それらがコンピュータに搭載される単一のOSとして浸透するかと言えば、極めて怪しい。デュアルブートあるいはバーチャルマシンとしての実装は、もしかすると普及するかもしれない。

以上の考えに基づき、連携の具体例の一つとして、とあるデスクトップエージェントの設計概要をここに公開する。

デスクトップエージェント"CRENO"の設計

システムの核をなす処理を行うプロセスをC-カーネル、インターフェースとしてユーザとのやり取りを行うプロセスをC-シェルと呼び、カーネルとシェルの間は専用のプロトコル(STTP)で通信を行う。

カーネルとシェルは各々基本的には独立して動作するが、シェルはカーネルへのアクセスに失敗すると強制終了する。カーネルはシェルからのアクセスを待ち受けるほか、Web経由のSTTP通信にも応答するよう設計される。

それぞれ以下の概要で開発を進めることとする。

C-カーネル

C-シェル

「伺か。」をはじめとするSSTPサーバ・クライアント群と考え方は似ているが、

で完全に趣を異にする。

この本質的な違いにより、

といったことが可能になる。

STTP(Streaming Text Transfer Protocol) については、

以上、三種のアニメーションを定義する Streaming Text for Animation (STA) の通信に使われる新しいプロトコルとして仕様化する。Webとの連携も鑑み、HTTPとある程度互換性を持った仕様を想定している。


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